人は人の中で生き続けることができるかもしれない

 

 

人生とは何かを考えることは、出口の果てしなく遠いトンネルをくぐるようなもの。漠然と答えは見えるけれども辿り着けない。人生そのものは迷路のようなもので、いくつもの選択肢がある。ときには遠回りをしたり、壁にぶつかったりする。

幼少期の、目の前のなにもかもが新しかった頃は、人生とはなにかなど考えることもなかった。思春期は漠然と自分の存在価値を考えることが増えた。そして似たような境遇の者同士が集まった。また祖父母の死に直面し、深い悲しみを覚えた。母子家庭だったので高卒で働くつもりでいたが、医療職になることをこの頃に決めた。就職し、新たな家族を迎えると、人生とはなにかを考えるようになる。死とはなにか、生きるとはなにか、といったまるで哲学的な思考に入り込んでしまう。

 

起床し、仕事をし、帰宅して家事育児をし、就寝する。基本的にはこの定型的な生活リズムが出来上がっている。言い換えると、新たなイベントに出くわすことが少ない。たまにおとずれる新たなイベントは、自然災害や新たな病の流行などのため、より一層新たなイベントに関する警戒心だけが強くなり、「普通が一番よね」という保守的な思考ができあがってしまう。(もちろん普通に生活できるということは何物にも変え難い)

 

私の敬愛する高齢医師(70代後半、見た目は60代前半)がいる。若さの秘訣を尋ねると、「子どものように何にでも興味を持って、少年のように何でもやってみることかな」と言われた。先生の抽象化された言葉が腑に落ち、スーッと心が晴れたことがある。

その先生とは滅多に会わないが、会ったときには「おう」と気さくに手を振ってくださる。先生にとっては誰にでもしていることだろうが、私にはとくにそれが嬉しく思える。

 

もうひとり、80後半になり妻の介護をしながら、非常勤で勤務されている高齢医師(故人)がいた。その先生は身体機能が弱ってきており、シルバーカーを使用されていた。もちろん歩く速度も遅いし、見た目も年相応に見えていた。

しかし、ひとたび口を開くと、非常にハッキリとした通る声をしており、レスポンスも早かった。頭はまるで30代か40代のままなのではないかという気もした。

医局にその先生を訪ねると英語論文を読んでおられた。しかも専門外の論文も読んでおられたのでその理由を聞くと、「大きく外科と内科だったものは分化して、より専門的な知見を得られるようになりました。ですが、その次にはどのように連合化するのかということが課題なのです。我々は、少なくとも私は、医師で苦手な分野はあっても良いと思うんです。しかし、専門外だから知りませんというのが一番いけない。」と言われた。言葉が出なかったことを思い出す。

それ以来、私も総合的に各分野の論文を読むように努めるようにしている。その先生は90代で亡くなったが、その2ヶ月前まで入院先から勤務されていた。「今仕事しなければ、まるで下り坂をゴロゴロ転がるように悪化してしまう」と言われていた。

 

高齢医師に関する(批判的な)ツイートを多く見かけるが、みながそうではなく、少なくとも、私の周りにいる医師はそれらのツイートに当てはまらない(であろう)医師と思う。

 

今でも先生方のお言葉には救われており、心に刻んでおります。

 

こうして、人は人の中で生き続けるのだろう。