論文を書くより先に論文を読めるようになることが先

 

科学として扱われる学問には必ず研究論文が存在します。私は医学に身をおいていますので、これからする話は医学論文のものと思ってください。

 

論文構成には緒言、対象と方法、結果、考察といった型があり、読むだけならば難しくありません。読むだけなら。

 

論文を書くために行う研究にはルールがあります。それには適切な統計手法か、研究デザインは適切か、バイアスリスクはあるか、などが存在します。デザインにより異なりますが、論文の質を担保するためのガイドラインもあります。

 

統計手法は差をみるのか相関をみるのか、量的データなのか質的データなのか、群はいくつあるか、などによりおおよそ決まりますが、対象者の背景を含む研究デザインや研究計画は緻密にたてなければ、その後に素晴らしい内容の研究をしたとしても評価されません。

つまり、論文を読む人はその論文に対して価値を判断する必要があるわけです。そのためには研究に関する知識がやはり必要です。

 

研究手法や研究計画書の書き方などはやりながら学ぶほうが良いこともありますが、研究に関する知識の多くは座学で習得可能です。そして中国やアメリカなど科学レベルの高いところのほうが研究は進んでいます。「研究はしなくていいから、適切に論文を読めるようになれ」と言われます。

 

論文の質を意識せずに読むと、結果の誤解釈を招く可能性が高くなります。ゆえに臨床応用したとしても、むしろ患者さんが不利益を被る可能性が生じるわけです。研究デザインが悪くてもその統計手法で出た数値には間違いはありません(ゆえにたちが悪い)。そのような研究結果が引用され社会に適用されると大変危険です。大切なのは研究デザインです。そして研究倫理。

 

先に述べたとおり、研究で大切なのは研究デザインです。有名雑誌に掲載されることではありません。「有名雑誌の論文ほど優れており、学部紀要論文は質が悪い」といった区別はナンセンスです(査読の壁の高さなどは存在するかもしれませんが)。「国立大学卒の人よりも私立大学卒の人のほうが頭が悪い」と言っているようなものです。これがバイアス(先入観)です。

本当に大切なのは見た目でも肩書でも学歴でもなく、「その人が何を言っているか」です。

とはいっても、肩書や学歴も情報発信者としてインパクトを与えるのには大きな力になりますから、適切に使用してほしいところです。

 

情報を受け、その真偽を見定めるためにも、リテラシーの土台を作るための知識のアップデートは我々国民の責務なのではないでしょうか。